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漫画に自由を!21

「漫画に自由を!21」は、漫画やアニメと言ったサブカルチャーにおけるあらゆる表現の自由を、日本国憲法第21条に基づき守ろうと、独自の手法で世界に訴える事を目的として結成されたサークル(団体)です。

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08-21

2014

ドラえもんと、藤子不二雄両先生の公然の秘密

いい記事だったので保存用に引用しました。


ドラえもんの黒歴史(前)全26話が封印! 知られざる放送中止事件
http://lite-ra.com/2014/08/post-377.html

公開10日目にして観客動員244万人を記録、興行収入32.7億円を突破した映画『STAND BY ME ドラえもん』。あの『ドラえもん』を3DCGで表現した話題性だけでなく、監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズの山崎貴と、『friends もののけ島のナキ』の八木竜一が務めるという豪華さ。さらに、秋元康が「何度も泣いてしまった」とベタ褒めしただけでなく、“塩”と呼ばれるAKB48のぱるること島崎遙香までもが「総選挙のときも泣かなかったのですが、この映画では泣いちゃいました」と告白するなど、「大人こそ泣ける映画」という口コミ作戦にも成功。イタリアや韓国、台湾、スイス、スペインなど21の国・地域での公開も決まり(19日現在)、評判も上々だ。

 だが、長きに渡って愛され続ける国民的アイドルキャラクターのドラえもんにも、表沙汰にはならない“黒歴史”があるのをご存じだろうか。その一例が、テレビアニメ版『ドラえもん』第1シリーズの“封印”だ。

 1979年から現在までテレビ朝日系で放送されている長寿アニメ『ドラえもん』は、じつは第2シリーズにあたるもの。最初にテレビアニメ化されたのは73年、日本テレビ系列で約半年・全26話で放送されていた。マニアのあいだでは“旧ドラ”“日テレ版ドラえもん”と呼ばれているものだが、これがソフト化されていないばかりか、ドラえもん公式の資料からも“なかったこと”になっているケースが多いのだ。

 なぜ、日テレ版ドラえもんは、無きもののように扱われているのか……。大人の事情で闇に葬られてきた数々の作品の謎を紐解いてきた安藤健二氏による『封印作品の憂鬱』(洋泉社)によれば、その大きな理由は、原作者である藤子・F・不二雄こと藤本弘氏が“『ドラえもん』のアニメを非常に嫌がっていた”せいだというのだ。

 この本のなかで、日テレ版とテレ朝版のふたつで美術監督を務めた川本征平氏は、このように話している。

藤本先生は、ほとんど余計なことをしゃべらない方でした。それでも、言わず語らず『以前やったのは非常に悔いが残る』なんてことは言われたんですよ。過去にアニメ化を許諾されたことを、非常に後悔されていた様子でした。テレビ朝日で新しくやるときにも、藤本先生は『前のは失敗だった』と思われていて、『そのぶんだけ今回のドラえもんは、これこそがドラえもんだということでやりたい』とおっしゃっていた」

 藤本氏にとって、この“日テレ版”がどれほど許しがたいものだったのか。そのことを裏付けるのは、富山での再放送打ち切り事件、通称“富山事件”だ。

 テレビ朝日で第2シリーズが放送された79年、藤子不二雄2人の故郷である富山県の富山テレビで、日テレ版の再放送が行われた。だが、全26話あるにもかかわらず、「この放送は、わずか9回で終了」。たった9回までしか放送されなかった理由について、小学館の元専務はこう証言している。

「(再放送を始めた局があると知って)藤本先生は大変お怒りになっていました。(中略)藤本先生は旧作の内容が全く気に入っておらず、『原作とは似て非なるものだ』とおっしゃっていました」

 そして、激昂した藤本氏からの「要請を受けて」、小学館は再放送を差し止めるべく、藤子スタジオとの連名で警告状を送付。これにより再放送は打ち切られたのだ。日テレ版ドラえもんが再放送されたのは、これが最後。すなわち、封印されてしまったのだ。

 あの温厚そうなF先生が、ここまで怒るなんて……。ファンならばにわかに信じがたい事件だが、なにも最初からとりつく島がなかったわけではない。アニメ化始動の際は、藤本氏は「協力を惜しまなかった」といい、実際、アニメ用に部屋の間取り図や家の俯瞰図なども描き下ろしている。が、放送直前に仕上がったパイロット版のラッシュフィルムの出来は、「とにかくひどかった!」(小学館関係者)。

 また、映像の出来映えだけではなく、“自主性のあるのび太”“秘密兵器を出すドラえもん”など、キャラクターもアニメオリジナルの設定が目立った。声優も、最初は『平成天才バカボン』の“バカボンのパパ”役で知られる富田耕生が演じ、いまの水田わさびの声に顕著な愛くるしさや、大山のぶ代のオカン(保護者)っぽさは皆無。相当にオヤジくさい声だったようだ。さらに、途中で富田は降板して『ドラゴンボール』の孫悟空でおなじみの野沢雅子にバトンタッチ。現場の混乱が透けて見えるような展開だが、視聴者もオッサン声から一転、突如、少年声に変化したことでさぞかし驚いたことだろう。ちなみに、日テレ版はYouTubeなどでオープニング動画や画像がアップされているが、「かぜきるおつむはツルツルテンだよ」「だけど ドラえもん いいおとこ」「ハァ ヤッショ マカショ」という歌詞が登場するアダルト歌謡のような主題歌(しかし作詞は藤子不二雄が担当)などは、テレ朝版に慣れた視聴者には大いに違和感が残るものである。

 ──それでも、封印されていると聞くと、ついつい観たくなってしまうのが人の好奇心というもの。「ぜひ観たい!」という人も数多いと思われるが、残念ながら「藤本の著作権を管理する藤子プロの許諾を得るのは相当難しい」(本書より)。テレビでの再放送、ソフト化される確率は、ほぼゼロであるようだ。

 が、しかし。『ドラえもん』をめぐっては、さらに大きな黒歴史がある。それは『ドラえもん』こそが藤子不二雄の解散劇を招いた、という噂だ。これについては、明日の後編でお伝えしたいと思う。
(水井多賀子)


ドラえもんの黒歴史(後)藤子不二雄の解散はドラえもんのせいだった!
http://lite-ra.com/2014/08/post-381.html

 昨日、お送りした国民的アイドルキャラクター『ドラえもん』の黒歴史。前編では、“日テレ版ドラえもん”ことテレビアニメ『ドラえもん』の第一シリーズが、藤子・F・不二雄の意志によって封印されていることを、安藤健二氏のルポ『封印作品の憂鬱』(洋泉社)をもとにお伝えした。後半である今回は、『ドラえもん』こそが藤子不二雄の解散劇を招いた、という噂について紹介しよう。

 まず、藤子不二雄が突如「解散」を発表し、世間を驚かせたのは1987年のことだった。ご存じの通り、藤子不二雄というのは藤本弘氏(藤子・F・不二雄)と安孫子素雄氏(藤子不二雄Ⓐ)のユニット名で、デビュー時の足塚不二雄(名字は尊敬する手塚治虫の名から「手塚の足下にもおよばない」という意味で付けたもの)などを経て、53年から名乗っていた。藤子不二雄Ⓐによる名著『まんが道』(中公文庫)にも詳しいが、そもそも2人は小学校からの付き合い。互いにアイデアを出し合い、ときに刺激し合い、2人で“マンガ家になる”というひとつの夢を追いかけてきた仲である。

 解散発表の際は、その理由を「私たちはお互い50ン才。もうあんまりアトがありません。新しい展開としてそれぞれがやりたいことをやってみるのも面白いんじゃないかと思ったわけです」と述べ、そのほかのインタビューでも“喧嘩別れしたわけではなく、自分たちの個性を尊重するためにコンビを解消した”ことを強調していた藤本氏と安孫子氏。だが、安藤氏の著書『封印作品の闇』(だいわ文庫)によると、これはあくまで表向きで、じつは解散にいたったのには別の理由があったのだという。それはずばり、2人の“収入格差”問題だ。

 もともと藤本氏と安孫子氏がコンビを組んでいたときには、藤子不二雄として得た収入を折半していた。たしかにコンビ時の長者番付を見ると、その納税額はほぼ同じ。が、コンビを解消した2年後以降の長者番付を見ると、藤本氏のほうが“圧倒的に”納税額が多い。安藤氏の取材でも、複数の関係者が「八〇年代の『ドラえもん』の大ヒットで、はたから見て稼いでいるのは藤本先生だというのは明らかになっていました」と口を揃えたという。

 しかし、それまで折半でやってきたにもかかわらず、なぜ突然、収入が問題となったのか。引き金となったのは、藤本氏の体調問題だ。コンビを解消する直前に藤本氏は胃潰瘍の手術を受け、「その後も肝臓を悪くして通院」していたのである。藤子不二雄の2人とトキワ荘時代からの知人で、赤塚不二夫のブレーンを務めていたマンガ家・マンガ評論家の長谷邦夫氏は、『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版)にこう書いている。

「重病を抱えた藤本は自分の死を考えれば、これまでのような二人でほぼ五〇%分割に近い著作権料のままでは、藤本家全体が承服できることではないと思ったのだろう。(中略)彼ら二人っきりだったら、友情という絆だけで、どのようにも分割できる。しかし、二人にはすでに家族が存在する。後にトラブルを起こさないよう、明確に分離しておかねばならない。子供時代よりの美しい絆も、現実の前にはかくもはかないものに変わらざるを得なかったのだ」

 もちろん、解散理由にはさらなる深い問題も絡んでいたようだ。安藤氏が『封印作品の闇』でテーマにしているのは2人の解散理由ではなく、2人の合作となっている『オバケのQ太郎』が絶版状態で復刊されない理由なのだが、その封印の真相を、小学館の元幹部はこのように証言している。

「藤本先生の側の許可がどうしても出ない。未亡人の藤本正子さんの許可が下りないんだ」
「これは私の推測だが、安孫子先生のお姉さんで藤子スタジオ社長の松野喜多枝さんと、交渉したくないというのも、あったんだと思う。二人の間には、藤子不二雄がコンビを解消したときからの因縁があるんだ」
「(コンビ解消の理由は)松野さんの存在が大きかったはずだ。彼女が藤子スタジオのマネージャーになったのは、『ドラえもん』の連載の途中からだったと記憶している。それまでは、藤本先生とも安孫子先生とも、直接打ち合わせできていたが、その後は必ず松野さんを通さないとできなくなった。(中略)松野さんが自分の弟である安孫子先生に、スタジオの軸足を移そうとしたのかはわからないが、スタジオ内でのパワーバランスが崩れてきたような話は聞いたことがある」(同書より)


 この合作『オバQ』は、09年に発刊された『藤子・F・不二雄大全集』に収録され、20年以上にわたる封印が解かれた。よって、封印の理由と見られていた“家族同士の問題”はすでに解決したということなのかもしれない。だが、収入格差による家族同士のトラブルを懸念し、長年のコンビを解消していたとなれば、その原因をつくったのは『ドラえもん』だということにもなるだろう。

 とはいえ、忘れてはいけないのは、『ドラえもん』は藤子氏と安孫子氏の友情があったからこそ誕生したということだ。安藤氏が「目頭が熱くなってしまった」という、2人の過去のやりとりを引用しよう。

安孫子「そういえば、ぼくらの漫画は、主人公二人っていうのが多いな。」
藤本 「『ドラえもんとのび太』『オバQと正ちゃん』……」
安孫子「やっぱり、何でも打ち明けられて、信頼し合えるっていう友だち関係は、すごく好きだなぁ。」
藤本 「ぼくたち同士、なが年の友だちだし、そういったことが自然に作品に反映されるのかもしれないね。」
安孫子「ジャイアンみたいないじめっ子だって友だちなんだというのっていいなあ、やっぱり。」
藤本 「これからも二人で一人、仲良く描き続けていきたいね。」
安孫子「楽しい漫画を力いっぱいいっしょうけんめい描こう!」
(『コロコロデラックス1 ドラえもん 藤子不二雄の世界』小学館/1978年)

 ──『ドラえもん』が不朽の名作となり得た裏側には、こうした藤本氏と安孫子氏の“唯一無二の輝かしい友情”がある。実際、安孫子氏は雑誌のインタビューで「(収入の問題で)トラブルは一切ありませんでした。(中略)二人とも漫画を描くことが大好きで、そのまま漫画家になった、という感じでプロの意識がなかった」(「アサヒ芸能」02年9月5日号)と答えているように、藤本氏と安孫子氏の2人のあいだでは“二人で一人、仲良く描き続けて”いただけなのだ。結果として家族を配慮する気持ちから解散してしまったと思われる2人だが、大人になってもこのような美しい関係を築けるとは、なんという奇跡だろう。

 藤子・F・不二雄生誕80周年記念として製作され、現在大ヒット中の映画『STAND BY ME ドラえもん』。ぜひこの機会に、『ドラえもん』裏ヒストリーともいえる2人の物語を触れてみてほしい。そこには、映画にも負けず劣らずの感動が待っているはずだ。
(水井多賀子)

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03-20

2014

泉佐野市長によるの「はだしのゲン」回収に反対します。(追記、回収は撤回されました)

泉佐野市教委がはだしのゲン回収 「差別的な表現が多い」

 漫画「はだしのゲン」

 大阪府泉佐野市教育委員会が今年1月、原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」に差別的な表現が多いとする千代松大耕市長の要請を受け、市立小中学校の蔵書を回収していたことが20日、分かった。

 中藤辰洋教育長によると、千代松市長や市教委は昨年から、漫画に「きちがい」「こじき」などの表現が使われていることを「差別を助長する」と問題視。小中学校の保有状況を調査し今年1月、小学校8校、中学校5校の蔵書を回収し、児童、生徒が閲覧できない状態になっていた。

http://www.47news.jp/CN/201403/CN2014032001000926.html


またしても「はだしのゲン」が標的にされたようです。昨年の松江市での閉架騒動が思い起こされます。


松江市教育委員会が「はだしのゲン」を閉架にしたのは、在特会の脅かしに屈したから?

2013.08.16 松江市はだしのゲン閉架問題について。


この時は日本中から反対の声が上がり、閉架は撤回されました。


この時は市民団体を騙った右翼活動家が自治体に嫌がらせをして「はだしのゲン」を図書館等からなくさせようとしていた事が白日の元に晒されましたが、今回は記事によると泉佐野市長自らが強権を発動して、はだしのゲンを無くそうとしているようですから余計に悪質に感じます。

千代松大耕 泉佐野市長、ツイッターは@chiyomasmile
HPはここのようです。

泉佐野市市役所各課の連絡先はここに一覧がありました。
http://www.city.izumisano.lg.jp/kakuka/


泉佐野市市会議員一覧はこちら。
http://www.city.izumisano.lg.jp/section/gikai/giinn/gisekizyunn.htm

検索して連絡先が出てきた市会議員は以下にまとめました。

泉佐野市を含む阪南地区の日本共産党市議の連絡先はこちら。
http://www.jcp-hannan.net/page/giin_renraku.html

野口 新一 泉佐野市議会議員のHPはこちら。
http://www.sensyu.zaq.jp/s_noguchi/Home.html

布田拓也 泉佐野市議会議員のHPはこちら。
http://nunota.businesscatalyst.com/


松江市の時も多くの反対意見が市議会に寄せられた為、閉架が撤回されました。
今回も意見を送るべきだと思います。


この泉佐野市はキン肉マンで知られるゆでたまご先生の協力の下、イヌナキンというご当地キャラクターを作って積極的に利用しています。
http://www.city.izumisano.lg.jp/topics/inunakin.html

片方の手で漫画を利用し、片方の手で漫画を潰す。こういう二枚舌は本当に許せない。



追記

「はだしのゲン」各校に返却 大阪・泉佐野市教委

 原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」に差別的表現が多いとして、大阪府泉佐野市教育委員会が小中学校の蔵書を回収していた問題で、市教委は20日午後、市役所で各校の校長に本を返却した。校長らは「まずは本を返してもらえて良かった」とほっとした表情を見せた。


多くの反対意見のおかげです。ありがとうございました。

01-28

2014

あのドレンが、私の到着まで持ちこたえられんとはな…

doren_01.jpg

戸田恵子、永井一郎さん訃報に悲痛「思い出に残るお仕事をご一緒に」

 声優で女優の戸田恵子(56)が、国民的人気アニメ『サザエさん』で磯野波平の声を担当していた声優の永井一郎さん(享年82)の訃報を受け、28日付の自身のブログで、大先輩の突然の死を悼んでいる。

数々の名作に出演…永井一郎さん写真付きプロフィール

 戸田は「永井一郎さん。お世話になった大先輩です。本当にただただ悲しいばかりです」と突然の悲報に言葉少なに心境を吐露。「私が声優としてド新人だった頃にご一緒した『機動戦士ガンダム』でのナレーション。私の代の『ゲゲゲの鬼太郎』での子泣き爺。思い出に残る素敵なお仕事をご一緒させて頂きました」と永井さんとの思い出を振り返った。

 以前は同じ事務所に所属していたという戸田。「永井さんは我が父と同じ年なんです。いつもそんな話題をしてました。いつだったか、数年前、街でバッタリお会いしたんです。『活躍してるねー!』って言ってくださった。『身体に気をつけてね』って言ってくださった」と懐かしんだ。

 最後は「心よりご冥福をお祈り致します」と故人を偲びつつも、「このフレーズ、もう言いたくないよね…」とつらい気持ちを綴った。

 永井さんは人気アニメ『サザエさん』(フジテレビ系)で磯野波平の声を1969年の放送開始から担当。そのほか、『ゲゲゲの鬼太郎』の子泣き爺、『機動戦士ガンダム』のナレーションなど数多くの人気作品を担当していた。

http://www.47news.jp/topics/entertainment/oricon/culture/140062.html




声優の永井一郎さんが亡くなられたという事で、芸歴=アニメの歴史ですから代表作も星の数ほどある中で私個人が思い入れがあるのは、やはり「機動戦士ガンダム」でしょうか。

「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、既に半世紀が過ぎていた。
地球の周りの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった。
宇宙世紀0079、地球から最も遠い宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。
この一ヶ月あまりの戦いでジオン公国と連邦軍は総人口の半分を死に至らしめた。人々はみずからの行為に恐怖した。」

勿論、このナレーションこそがガンダム・オブ・ザ・ガンダムとも言うべき何物にも変えがたい永井一郎さんの至極のナレーションですが、キャラクターの声も複数あてられていますよね。

その中でも私が好きなのはドレン。ドレンて誰だよ?という方に最もわかりやすい説明をするならば、シャアの名台詞。

「認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちというものを。」

の時に出てくるシャアの副官の人です。ガンダムの一番初めのエピソードですね。

若きエリート士官に仕える、叩き上げの職業軍人。永井一郎さんの非常に渋い声が大好きでした。
「はい」の声が「あ゛い…」という感じのだみ声でとてもいい。


ドレンはシャアがガルマを戦死させて左遷させるまで副官につき、その後シャアが最前線に復帰した際は艦隊指揮官として合流、しかしホワイトベース相手に戦死してしまいますが、その時は永井一郎さんの声ではないんですね。
池田勝さんの声に変わっていて、冒頭とは違って若い有能な士官といった感じに変わっています。

ドレンの死を知った時のシャアの台詞が

「あのドレンが、私の到着まで持ちこたえられんとはな…」

なのです。



ガンダムは声優さんが回によりちょこちょこ変わって、永井一郎さんもドレン以外にジオン軍ではギレンに殺害されるデギン・ザビ公王、12機のリックドムを僅か3分でアムロに撃破されたコンスコン、連邦軍ではエルランなど、主要キャラクターからモブまで幅広く声をあてられています。

そして勿論、次回予告のナレーション。

「君は、生き延びる事ができるか?」


永井一郎さんのご冥福をお祈りします。

09-06

2013

宮崎駿監督引退会見全文、私的備忘録用

宮崎駿監督の「公式引退の辞」全文 

 宮崎駿監督が6日、報道陣に配布した「公式引退の辞」の全文は以下の通り。

                ◇

 ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。

 もっと短くなるかもしれませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。

 ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作って来た人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。

 “風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か……それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果たされてしまいます。

 長編アニメーションではなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること--例えばジブリ美術館の展示--も課題は山ほどあります。

 これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑のかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけることにはなりますが。

 それで、スタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。

 ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。

 ありがとうございました。

以上
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090616310018-n1.htm

 公開中のアニメーション映画「風立ちぬ」を最後に引退することが明らかになった宮崎駿監督(72)は6日午後2時から、東京都内で記者会見を開いた。会見にはスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー(65)と星野康二社長(57)も出席。会場には海外11の国・地域を含む国内外のメディア関係者約600人が詰めかけた。会見の詳報は以下の通り。

 〈午後2時に会見は始まった。宮崎監督と鈴木プロデューサーが、報道陣からカメラの激しいフラッシュを浴びつつ登壇。黒いシャツに薄いグレーのジャケットを着た宮崎監督は淡々とした表情で口を開いた〉

 宮崎「質問をしていただければ何でもこたえる形で…。一言。ぼくは何度も辞めるといって騒ぎをおこしてきた人間なので、『どうせまただろう』と思われているんですけれど、今回は本気です(笑)。」

 〈会場に笑い声が広がる中、宮崎監督は早々に鈴木プロデューサーにマイクを交代。鈴木プロデューサーは、宮崎監督の盟友、高畑勲監督が製作中の映画「かぐや姫の物語」が予定通り11月23日に公開されることと、来年夏を目指して新作が製作中であることを明らかにした〉

 〈会見は宮崎監督との一問一答に移る〉
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090614240011-n1.htm

 〈鈴木プロデューサーのあいさつの後、質疑応答に移った〉

 --引退に当たって子供たちへのメッセージを

 宮崎「うーん、そんなにかっこいいことはいえません。機会があったら、私たちの映画を見てくだされば、何かが伝わるかもしれません」

 --長編の監督を辞めるということか。今後やりたいと思っていることは

 宮崎「(映画を)やらない自由もあるんです。でも、車を運転できる限り、毎日アトリエには行こうと思っています。まだ休息を取らなければいけない時期なので、これから(やりたいことが)わかってくるんだと思うんですが…。ご理解ください」

 --映画「風の谷のナウシカ」の続編についての考えは

 宮崎「それはありません」

 --(韓国メディアの質問)韓国のファンに一言。また、ゼロ戦をめぐり、韓国で話題になっていることについての考えは

 宮崎「映画を見ていただければ分かると思っていますので、いろいろな言葉に邪魔されないで、映画を見ていただけたらいいなと思います。いろんな国の方々が作品を見てくださっているのはありがたい。同時に『風立ちぬ』は、日本の軍国主義が破滅に向かっていく過程を舞台にしている。それについてのいろんな疑問は、家族からもスタッフからも出た。それに応える形で作品を作った。ぜひお金を払って映画を見てほしい」

今後やろうと思っても、それは年寄りの迷い言だと


 --今後、ジブリの若手監督作の監修や脚本などに関与するのか

 宮崎「(予定は)ありません」

 --今回の引退宣言は、これまでの発言と何が違うのか

 宮崎「『風立ちぬ』は『ポニョ』から5年かかった。その間、シナリオを書いたり漫画を書いたり、いろんなことをやっていましたが、やはり5年かかる。今、次の作品を考え始めると、5年じゃすまないでしょう。この年齢ですから。次は6、7年かかるかもしれない。僕はあと3カ月で73歳。(作品完成までに)80を過ぎてしまう。この前、83歳の半藤一利さんとお話をして、本当にいい先輩がいると思った。僕も83歳になってこうなれたらいいなと。だから(創作を)続けられたらいいと思いますが、今までの仕事の延長線上にはない。僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わった。今後、やろうと思っても、それは年寄りの迷い言だと」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090615060013-n1.htm

 〈冒頭、報道陣からの質問は引退理由に集中した。一方、海外メディアからの質問も相次いだ〉

 --引退を決めたタイミングは

 宮崎「よく覚えていないんですけれど、鈴木さんに『もうだめだ』といいました。鈴木さんは『そうですか』と。何度もやってきたことなので、鈴木さんが信用したかは分かりませんが、ジブリを立ち上げたときに、まさかこんなに長くやるとは思わず、何度も引き時を話してきた。『次は7年かかるかもしれない』という話に、鈴木さんもリアリティーを感じたんだと思います」

 鈴木「宮さんから話があったのは6月19日の後ではないか。これまでも『これが最後』という話があったが、今回は本気だな、ということを感じざるをえなかった。『ナウシカ』から30年。その間、いろいろありました。ジブリを続けていく間で、これ以上やるのはよくないんじゃないかとか…。僕も30年間、緊張がずっとあったと思う。それが今回、揺れた。別の言い方をすると、僕自身が少しほっとするところがあった。だから僕は、若いときだったらそれをとどめさせようという気持ちも働いたと思うが、ご苦労さまでしたという気分もわいた。それをみなさんに、いつどうやって知らせようかということは話し合いました。まず言わなきゃいけないのが、スタジオのスタッフに対して。『風立ちぬ』が公開して落ち着いた8月5日に伝えた。そして、映画の公開が一段落した時期に、みなさんにも発表できるかなと。そんな風に考えたことは確かです」

 --(台湾メディアの質問)台湾の観光客が日本を訪れた際、ジブリ美術館は外せない場所。引退後は旅行をかねて海外のファンと交流する予定はあるか

 宮崎「美術館の展示については私も関わらせてもらいたいと思っている。自分も展示品になっちゃうかもしれませんが(笑)、ぜひ美術館におこしいただきたい」


 --鈴木プロデューサーに。「風立ちぬ」が宮崎監督の引退作になる予感はあったのか

 鈴木「宮さんの性格からして、ずっと作品を作り続けるんじゃないかと思っていました。それは、死の間際まで作り続けるんじゃないかと。そんな予感の一方で、宮さんと35年付き合って、別のことをやろうというときに自分で決めて、宣言する人でもある。そのどっちかだろうと思っていましたね。引退の話は僕の予想の中に入っていた。だから素直に受け止められた」

 宮崎「映画作るのに死にものぐるいで、それ以外のことを考えていなかった。映画ができるのか、といった方が自分には重圧でしたね」

 --(ロシアメディアの質問)外国のアニメーション作家からの影響について教えてください

 宮崎「(ロシアのアニメ作家)ノルシュテイン監督とは友人です。負けてたまるかという相手でした。まあそれほどじゃないんですけれど(笑)。今日、実は高畑(勲)監督も出ないかと誘ったんですけれど、冗談じゃないという顔をされて。彼はずっと(映画を)やる気じゃないかと思っています(笑)」

 --作品歴の中で、最も思い入れのある映画は

 宮崎「うーん、自分の中にとげのように残っているのは『ハウルの動く城』です。ゲームの世界をドラマにしようとした結果、本当に格闘しました。僕は児童文学の多くの作品に影響をうけてこの世界に入った。子供たちに『この世は生きるに値するんだ』ということを伝えることが、仕事の根幹になければならないと思ってきました。それは今も変わっていません」


 --(イタリアメディアからの質問)イタリアは好きか。それから、宮崎さんが美術館で館長として働くといいのではないか

 宮崎「僕はイタリアは好きです。まとまっていないところも含めて。友人もいるし食べ物もおいしいし、女性はきれいだし。ちょっとおっかない気もしますが…。それから、館長で『いらっしゃいませ』というよりは、展示物を描き直したりしなければいけないと思っています。美術館も毎日、掃除しているはずなのに、いつの間にか色あせてしまう。美術館をいきいきさせるためにはずっと手を掛けていかなければいけない。それをやりたい」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090615280014-n1.htm

〈宮崎監督の「今後」についての質問は続く〉

 --美術館では短編アニメーションも放映されている。展示の一環として、作品を手がける可能性はあるか。また、鈴木さんは、ジブリの今後をどう考えているのか

 宮崎「僕は自由です。やってもやらなくても自由です。だから、前からやりたいことをやろうと。それはアニメーションではありません」

 鈴木「僕は今、『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)のあと、来年の企画に関わっています。僕も65歳です。このじじいがいったいどこまで関わるのか。今後のジブリの問題というのは、ジブリにいる人たちの問題でもある。その人たちによって決まると思う」

 宮崎「やっと上の重しがなくなるんだから、若いスタッフの声が鈴木さんに届く。それがないとだめです。僕も若いころはいろんな企画を出した。鈴木さんは門前払いする人ではありません。いろんな人の意欲や希望や能力にかかっているんだと思います」

 --長編作品で、ほかにやってみたかった企画は

 宮崎「それは本当に山ほどあるんですけれども、理由があったからやれなかっただけです。辞めるといいながら、『こういうのをやったらどうなんだろう』というのはありますが、それは人に語るものではないので、ご勘弁ください」

 --具体的に、これからどんなことをやりたいのか

 宮崎「やりたいことはあるんですけれども、やれなかったらみっともないからいいません。それから僕は、文化人になりたくないんです。僕は町工場のおやじ。それを貫きたいと思っています。文化人ではありません」


 --当面は休息を優先するのか。また、東日本大震災や原発事故が「風立ちぬ」に与えた影響は

 宮崎「『風立ちぬ』の構想は、震災や原発事故によっては影響されていません。はじめからあったものです。時代に追いつかれて、追い抜かれたという感じを映画を作りながら感じました。僕の休息は他人から見たら休息に見えないかもしれない。仕事をやっているとそれが休息になることもある。寝転がっているとくたびれることもある。これから、東山道を京都まで歩ければいいなと夢見ますが、たぶん実現不可能だと思います」

 --「風立ちぬ」で時代に追い抜かれたという感想と、引退は関係があるのか

 宮崎「関係ありません。アニメーション監督は、みんな仕事のやり方が違う。僕はアニメ映画出身なので、描かないと表現できない。そうすると、めがねを外してこう(机に向き合って)やらないといけない。どんなに節制しても、集中できる時間は年々へっていく。『ポニョ』に比べると、机から離れるのが30分早くなった。加齢によって発生する問題は仕方がない。僕は僕のやり方を貫くしかない。長編アニメーションは無理だという判断をした」


 --「クールジャパン」といわれるような日本のアニメーションを、どうごらんになっているのか

 宮崎「申し訳ないんですけれども、私が仕事をやるということは、一切映画もテレビもみないという生活をするということ。ラジオと新聞は少し聞いたり見たりしますが、あとは驚くほど見ていないんです。ジャパニメーションがどこにあるのかすら分からない。発言権は僕にはないと思います。みなさんも私の年齢になればわかると思いますが、気を散らすことは一切できないんです。スタジオの映写室で(アニメ作品を)何本かやってくださるんですが、大抵途中で出てきます。そんな不遜な人間なので、今がしおどきだなと思います」

 --引退宣言をする映画監督が少ない中、あえて引退を公表されたのは

 宮崎「引退宣言をしようと思ったわけじゃないんです。スタッフに、もう辞めますと言いました。その結果、プロデューサーから『取材申し込みがたくさんあって大変です』と。それで、こうなっちゃった。こういうイベントをやる気はさらさらなかったんです」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090615390016-n1.htm

 --宮崎作品の功績や影響についてどう振り返っているか

 〈質問者は宮崎監督に尋ねたようだが、宮崎監督は鈴木プロデューサーにまず話すよううながした〉

 鈴木「そういうことはあまり考えないようにしているんです。目の前の仕事ができなくなるから。僕が宮崎作品に関わったのは『ナウシカ』から。そこから約30年間、ずっと走り続けてきて、過去の作品を振り返ったことはなかった。それが仕事を現役で続けるということだと思っていた。どういうスタイルで映画を作るのか、なるだけそういうことは封じる。作品が世間にどういう影響を与えたのか、考えないようにしていました」

 宮崎「まったく僕も考えていませんでした。採算分岐点(損益分岐点)にたどり着いたらよかった、と。それで終わりです」

 --(フランスメディアからの質問)先ほどイタリアは好き、という話があった。フランスはいかがでしょう?

 宮崎「正直に言います。イタリアよりも口に合いません。クリスマスにたまたま用事があって行ったとき、どこのレストランに行ってもフォアグラが出てくるんです。それがつらかった。ルーブル美術館はよかったですよ。料理はイタリアの方が好きです(笑)。フランスに(アニメ監督の)ポール・グリモーという人がいて、高畑監督の世代に圧倒的な影響を与えた。今見ても、その志や世界の作り方については本当に感動します。僕もいくつかの作品がきっかけになってアニメーターになろうと思いましたが、フランスの作品から大きな影響を受けました」


 --東映動画(現・東映アニメーション)に入社してから半世紀。つらかったことは

 宮崎「つらかったのは、どの作品でも、スケジュール。僕は終わりまで分かっている作品は作ったことがないんです。見通しがないまま(制作に)入る作品ばかりだった。つらかった、としかいいようがない。最後まで見通せる作品は、僕が(監督を)やらなくていいと思って企画やシナリオを書きました。スタッフは、(先が)分からないまま作業するのですから、よく我慢してやっていたなと思います。でも、それがジブリにとって意味があった。あがってくるカットを自分でいじくっていく課程で、映画への自分の理解が深まっていくことも事実。あまり生産性には寄与しない方式でしたけれども…。とぼとぼとスタジオにやってくる日々。50年、そういう仕事でした」

 --一方、よかったことは

 宮崎「監督になってよかったと思うことは一度もない。でも、アニメーターになってよかったと思うことはある。うまく風が描けたとか、水の処理がうまくいった、光の表現がうまくいったとか…そういうことで2、3日、短くても2、3時間は幸せになれる。でも、監督は最後に判決を受けなければ行けない。これは胃によくない」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090615460017-n1.htm

 --つらかった中で監督を続けてきた理由は

 宮崎「簡単な理由でして、高畑勲と出会って、いろんな話をしました。それで『ハイジ』をやったとき、まったく打ち合わせの必要がなかったんです。考えていることが分かる。監督はスケジュールが遅れると怒られる。高畑勲は始末書をいくらでも書いていましたけれども、そういうのを見るにつけ、監督はやりたくないと思っていました。しかし、ある時期がきて、監督をやれといわれたときは途方に暮れたんです。僕は、監督や演出をやろうという人間じゃなかった。僕は監督をやっている間も、アニメーターとしてやってきた。それについてはずいぶんプロデューサーが補佐してくれました。そういうチーム、腐れ縁があったおかげでやれてこられたんです」

 --「かぐや姫の物語」(高畑監督の新作)について

 宮崎「まだ見ていない」

 --「風立ちぬ」の最後のせりふを変えたと聞いたが

 宮崎「最後は本当に煩悶しましたけれども、なぜか。とにかく絵コンテをあげないと制作デスクの女性が恐ろしいんです(笑)。とにかく絵コンテを形にしないとどうにもならない。でも、やっぱりだめだなと思いながら、絵があってもせりふはかえられますから、仕切り直ししたんです。最後の草原は、煉獄なんです。ダンテの『神曲』なんか読むからいけないんですね」

 --今、達成感はあるか

 宮崎「総括はしていません。自分が手抜きした感覚があったらつらいでしょうけれど、たどり着けるまではたどり着いたと思っています。振り向かないようにしてきました。同じことはしないつもりでやってきた」

 --ジブリを立ち上げてから、日本社会はどう変わってきたかと思うか

 宮崎「ジブリをつくったころ(1985年)は、日本が浮かれ騒いでいる時代だったと思います。経済的にもジャパン・アズ・ナンバーワン。そういうことに、僕は頭にきていました。頭にきていないとナウシカなんかつくりません。1989年にソ連が崩壊して、バブルが崩壊した。その過程で、ユーゴスラビア内戦など歴史が動き始めた。今までの作品の延長上に作れないとなった。そこで、僕や高畑監督は豚や狸を主人公にして切り抜けた。そこから長い下降期に入った。バブル崩壊とジブリのイメージは重なっているんです。その後、『もののけ姫』などずるずる作ったりしてきました」

 --(中国メディアの質問)中国での作品上映の見通しについて

 星野「中国では今後、規制緩和で外国映画の上映も増えていく見通しもある。そういった点で前向きに考えていますが、現時点では、ジブリ作品は上映される状況にありません」


 --「風立ちぬ」では、庵野秀明監督ら宮崎監督のゆかりの深い人が出演されている。意図は

 宮崎「僕は東京と埼玉の間を往復して移動していますが、映画もテレビも見ていません。記憶によみがえってくるのは、モノクロ時代の日本映画です。昭和30年以前の作品です。生きるのに大変な男女の記憶です。失礼ですが、今のタレントさんのしゃべり方と比べると、ギャップにびっくりします。なんという存在感のなさか。庵野も、スティーブン・アルパートも、(声優に)選んだのは存在感だけです。乱暴だったかもしれないが、よかったと思う。昔の映画はそこでしゃべっている人にしかマイクが向けられていないので、周りの人間がどれだけしゃべっていても、音が出てこなかった。僕はその方が正しいと思う。音響監督も同じ問題意識を共有していた。ほかのスタッフも気持ちを共有して、いい円満な気持ちで終えられた。映画を作る上で運がよかった」

 --(香港メディア)宮崎監督は「ポニョ」公開よりやせている気がするが、健康状態はどうか

 宮崎「今、僕は(体重が)63・2キロです。50年前にアニメーターになったときは57キロでした。結婚して三度めしを食うようになり、一時は70キロを超えました。醜い豚のようでした。映画をつくる上で体調を整える必要があるので、外食はやめました。朝をしっかり食べ、昼は家内の作った弁当を食べ…節制したらこういう体型になりました。女房の協力のお陰なのか、陰謀なのか。僕は最後、スタートの57キロになって死ねればいいと思っています。健康はいろいろ問題がありますが、何とかなるんじゃないかと思っています。映画一本作るとよれよれになります。この夏は暑くて、歩き方が足りないんです。もう少し歩けば、もう少し元気になると思います」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090616570020-n1.htm

〈会見も終盤。記者の質問は、宮崎監督の政治的発言に踏み込んでいく〉

 --「町工場のおやじ」がジブリの冊子「熱風」で「憲法を変えるのはもってのほか」と発信した。その理由は

 宮崎「『熱風』から取材を受けて、自分の思っていることを率直に話した。もう少し考えてしゃべればいいのですが、でも、訂正するつもりもありません。ただ、それを発信し続けるかというと、僕は文化人じゃない。その範囲でとどめたい。それから、中日新聞で憲法について語ったんです。そうしたら、鈴木さんにネットで脅迫が届くようになった。冗談まじりに『ブスッとやられるかもしれない』なんて話をして。それを聞いて、僕や高畑も発言すれば、的が定まらないだろうと思ったんです(笑)」

 --「風立ちぬ」の中では「10年」がキーワード。これからの10年をどう迎えたいか

 宮崎「僕の尊敬している作家の堀田善衛さんが最晩年、エッセーで旧約聖書について書いたものがある。その中の文章から影響を受けている。10年という時間については、僕は絵の先生から『絵を描く仕事は38歳くらいに限界が来るから気をつけろ』といわれた。僕は18の時から修行を始めたが、監督になる前『アニメーションというのは世界の秘密をのぞき見ることだ。風や人の動きや表情やまなざしや体の筋肉の中に世界の秘密がある。そう思える仕事だ』と分かった。そのとたん、自分の仕事がやるに値する仕事だと思った。それはだんだんややこしくなるんですが、その当時、自分は本当に一生懸命やっていた。これからの10年はあっという間に終わるでしょうね」


 --引退について奥さんの反応は

 宮崎「家内には、『お弁当は今後もよろしくお願いします。まことに申し訳ありませんが』といいました。僕はすっかり外食に向かない人間になった」

 --ベネチアで引退を発表した理由は

 鈴木「『風立ちぬ』の出品要請は直前だった。社内で発表するスケジュールは決まっていたが、外国の友人も多い。ベネチアで発表すれば、一度に発表できると考えた。それだけ」

 --集大成の作品に込めたメッセージは

 宮崎「自分のメッセージを込めて映画は作れない。自分の意識で(作品は)捕まえられない。最後に未完で終われたら、こんなに楽なことはないんです。僕は叫んでおりません」

 --初期の作品は2年間隔だが、今回は「ポニョ」から5年かかった

 宮崎「1年間隔で作ったこともある。『ルパン三世』は4カ月半で作った。最初の『ナウシカ』も『魔女の宅急便』もいろんな材料があったが、その後は『さあ何を作るか』と考えなくてはならなくなった。それで時間がかかった。実際、机に向かえるのは1日7時間が限度。打ち合わせだとか、そういうことは仕事ではないんです。机に向かってこそ仕事。最近はやりっぱなしで放り出して帰るようにしていたが、それでも限界ぎりぎり」

 --最後に

 宮崎「長い間ありがとうございました。(会見について)2度とこういうことはないと思います」

=おわり
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130906/ent13090617140021-n1.htm

06-12

2012

ジャーナリスト大谷昭宏氏は、大阪通り魔事件でオタク文化を批判したのか?



以下文字起こし

“六月八日って言うと池田小学校の事件なんですね。それから秋葉原の例の連続通り魔事件。これもそうなんですね。そして今月六月十日と、何かそういう中でですね、死刑願望の人たちがですね、ある種潜在的なですね、そういう意識を持ってないのか。しかも日曜の繁華街、オタク文化に近い日本橋にも近いんですね、そういう連鎖性がないのかどうかという事もですね、やっぱり司法の中で精査していかなきゃいけないことじゃないかと思いますね。”



実際に動画を見る限り、ヲタク文化を批判しているのではなく、今回の犯人は秋葉原の通り魔事件が念頭(大谷氏曰く、潜在的な意識を持っていた)にあったのではないか、という事を示唆しているように聞こえる。

連鎖性とはオタク文化を指しているのではなく、繰り返される通り魔事件を指している。

少なくとも私はそう受け取った。



大谷氏が過去に、フィギュア萌え族という造語を用いてヲタク文化を根拠なく名指しで批判した事は私も知っているけど、今回の発言はそれとは異なるように思える。

勿論、偏見を絡めた発言である可能性は否定できないが、少なくともこの発言だけを見た場合、オタク批判が込められているという論調は行き過ぎだと感じる。
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